エッセイ「閑土里西部譚 バンジョー片手に」 Vol.1

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シドニー・オーストリア コアラパークにて8/2/1959
 
  1959年7月、五弦パンジヨーを片手に羽田空港から大勢の友人、ファンに見送られてベスバーさんと一緒に、オーストラリアのシドニーヘ旅立ったあの日の事は、今でもはっきり昨日の事のように思い浮かびます。 オーストラリア人のJohn Vesper(ジョン・ベスバー)さん(当時はパンアメリカン航空勤務、現在はオーストラリア観光会社日本総支配人)彼が初めて私を観たのが、青山の青少年ホールでの「ウエスタン・コンサート」の時だそうです。その時、私が歌った「DING DONG POLKA」のヨーデルがすごく印象に残ったらしく、それからしばらくしてある人の紹介で彼と知り合いました。 彼のオーストラリアの親類の人がヨーデルを歌うそうで、話も弾み、ときどき彼の住んでいた大森の素晴らしい邸宅に遊びに行くようになりました。そんなある日、彼から「ヨシ、オミヤゲアリマスヨ」の電話を受け、早速行ってみると、それはピカピカのゴキゲンなパンジョーではありませんか(当時、私は4弦のテナーパンジョーを弾いてました)。
ところがこのパンジョー、6フレットの処に弦巻のついた変わった楽器である。訊いてみると五弦パンジョー(5 Strings Banjo)との事。手にするのは始めてだし、どうして弾くのか、もらっても宝の持ち腐れでした。しばらくして彼が「どうして私のあげたパンジョーをステージで弾かないのですか」に私は「日本にはこの種の先生はいないし、習う参考資料は何もないからダメネ!」と少しオーバー気味に云ったのです。彼は「それなら Good Teacher がシドニーにいるから習いたいですか」と。私は「Oh! Yes」と大声で答えたのはもちろんです。
こんな経緯で、まったく信じられなかった幸運を胸におさめ五弦パンジョー片手にその第一歩を歩きはじめたのです。 真夏の日本から一路オーストラリアのシドニーヘ、何とこちらは真冬とは‥‥。余りの違いにちょっと面喰らってしまいました。空港ではベスバーさんの妹のリンダ夫妻とヴァージニア夫妻に迎えられ、また歓迎のキスには嬉しいやら恥ずかしいやらで大いにテレました。ヴァージニアさんは元オペラ歌手として一世を風靡したブロンドの美しい人です。シドニーから車で一時間余り、小高い丘の上のエピングという町がこれから僕の住む処。騒音、雑踏の東京に比べ人家は少なく、広い芝生と赤いレンガの家がまるでオトギ話に出てくるような素晴らしさでした。
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  シドニーのテレビ局に出演  
  その夜は僕の歓迎パーティーが盛大に開かれ大勢の音楽家、ディレクター、歌手、etc が集まり飲んだり話たり、だんだんムードも高まり、誰ともなくピアノに合わせて歌い踊りヴァイオリンのソロ、バレリーナの美しいダンスと続き、やがてカウボーイハットの良く似合うウエスタン歌手のReg Linsay(レュグ・リンゼイ)が僕の為に「Desert Lullaby」(砂漠の子守唄、この曲はワルツで単調素朴なヨーデルで、今でも僕の大好きなレパートリーとして歌っています)をプレゼントして歌ってくれたのには感激しました。そのお礼に僕の唯一の隠し芸である「黒田節」を歌い、踊り大いに拍手喝采を受け、ではもう一曲と得意のヨーデルを歌い続け、夜の更けるのも忘れ、それは大変楽しい思い出深い一夜でした。 シドニーでのVACATIONも夢のように過ぎて、いよいよPhil Skinner Music Schoolの登校日である。Eppingからバスに乗って約40分ほど、Crows Nest(カラスの巣)という名の町で4階建ての素晴らしい学院でした。週5日制で僕の通うパンジョー科には約40人位の生徒がいて、もちろん日本人は僕一人だけ。先生から皆に紹介され、何となく馴れない雰囲気にちょっと照れ気味の自分をどうする事もできなかったのを、今でもはっきり憶えています。
 先生はなかなか親切でこの分なら大丈夫だろうとホッとする。久しぶりにパンジョーを手にしたので、嬉しくて体がムズムズするのを感じた。一日一日、一歩一歩練習に励もう、新しく買ったパンジョーは(米国製でTHE WINDS OR PREMIER MODEL 2)ロングネックでフレットの間のポジションマークの模様がとても凝っていて恰好もいいし、とても気に入ってしまった。ピックを使わないシステムで、指も楽器になれないせいか痛いしオタマジャクシとのニラメッコで目がボーッとするし、初めの一週間は無我夢中でした。学校生活に馴れるに従ってだんだんクラスの人気者になった僕は、昼休みなど皆に囲まれて日本の唄、C&Wソング、ヨーデルなど歌ったりしてそれは楽しい毎日でした。お蔭様でホームシックなどにもならずにすみました。でもレッスンは日毎に難しくなり、帰ってから5〜6時間はPractisingしなくてはついていけず、それは死に物狂いでした。のほほんと過ごした大学の頃は本当に楽だったなぁ‥‥などと思い返す事しばしばでした。

....つづく

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