エッセイ「閑土里西部譚 バンジョー片手に」 Vol.5
英国が誇る超豪華船 “BIG S.S. ORONSAY"(ビッグ・エス・エス・オロンセイ号)に乗ってシドニーからハワイへと新たな希望を胸にだいてA
HAPPYNEW YEAR を海外で、まして船上で迎えたのは、むろん初めての事だが、おせち料理、お雑煮、特にオモチ好きの僕にはどうもしつこい西洋料理があのときほど苦痛に思えた事はなかった。だから何とも淋しいと言うか悲しい正月でした。キャビンメートはトンガ島のジョン・ツキアさんと言う黒人で、彼はとても親切でよく面倒をみてくれて大助り、ただ失敗といえば乗船して翌朝の食事が一時間の時差を知らずに起きて食べそこなってから我々は一層仲良くなった。バンジョーが気に入ってか暇さえあれば歌い騒いだものです。1月2日、ニュージランドのオークランドに寄港、早速観光バスで島めぐり、Sayage
Memorial、Winter Garden、Hihotapu 博物館、Mt、 Eden (エデン山660フィート)etc. RANGITOTOと言う木のない岩と砂だけの変な山がそびえ立ち、それがなぜか美しく印象的だった。
1月5日、次の寄港フィジー諸島のSUVA(スーバ)に、満員のTour BusはDEUBA Beach Comber Hotelへ直行、一時間一寸、非舗装道路のうえに、まがりくねったスネイクロ一ドでゆれにゆられてバテ気味だったが、ワラブキ家屋の原住民が我々の一行に親しげに手を振り続けるので、こちらもそれに答えてつい疲れを忘れてしまったものです。さて着いた処は浜辺に近い背の高い榔子の沢山茂った割と近代的なホテルで、ネイティヴガールが、パパイヤ、パイナップル、肉、ワイン、わけの分らぬものが次々と、そのサービスぶりにオドロク! やがてShowが始まりネイティヴの奇妙な踊り、ヤシの実の皮むき、ヤシの葉でカゴやハット作り競争と、初めてみるその彼等のめずらしいShowに我々は惜しみなく拍手を送った。誰が言ったのか突然酉長に呼ぴ出された僕はギターをかりて数曲歌わされた。その昔、彼等は人食い人種だったとあとから聞かされ背すじがぞーっとした。「知らぬが仏」とはよく言ったものである。

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シドニー、ニュージーランドを経て
フィジー・スーヴァのDeuba Beachで |
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その夜は僕の歓迎パーティーが盛大に開かれ大勢の音楽家、ディレクター、歌手、etc
が集まり飲んだり話たり、だんだんムードも高まり、誰ともなくピアノに合わせて歌い踊りヴァイオリンのソロ、バレリーナの美しいダンスと続き、やがてカウボーイハットの良く似合うウエスタン歌手のReg
Linsay(レュグ・リンゼイ)が僕の為に「Desert Lullaby」(砂漠の子守唄、この曲はワルツで単調素朴なヨーデルで、今でも僕の大好きなレパートリーとして歌っています)をプレゼントして歌ってくれたのには感激しました。そのお礼に僕の唯一の隠し芸である「黒田節」を歌い、踊り大いに拍手喝采を受け、ではもう一曲と得意のヨーデルを歌い続け、夜の更けるのも忘れ、それは大変楽しい思い出深い一夜でした。
シドニーでのVACATIONも夢のように過ぎて、いよいよPhil Skinner Music Schoolの登校日である。Eppingからバスに乗って約40分ほど、Crows
Nest(カラスの巣)という名の町で4階建ての素晴らしい学院でした。週5日制で僕の通うパンジョー科には約40人位の生徒がいて、もちろん日本人は僕一人だけ。先生から皆に紹介され、何となく馴れない雰囲気にちょっと照れ気味の自分をどうする事もできなかったのを、今でもはっきり憶えています。
目にもあざやかな真赤な夕日が沈む頓、フィジー警察のオーケストラの演奏する螢の光のメロディーにのせて静かにオロンセイ号は次の寄港ハワイへと出航した。
船の中には毎夜、ビンゴ、競馬、映画、ダンスパーティといろんな催しものがあって、それが楽しみの一つでもあった。何でも仮装大会で僕がオーストラリアの度人に変装して第一位に選ばれ優勝した時まさかと思っていたが、体中ドロンコをぬられ、真っ黒で自分自身鏡をみて、これが俺かと嬉しいやら悲しいやら、それ程変身してしまったのである。その恰好でバンジョー片手にカウライジャを歌って特別賞までもらって、皆からキッスの雨を送られ、いやあ、マイッタマイッタ!
....つづく
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