エッセイ「閑土里西部譚 バンジョー片手に」 Vol.3

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新聞の切り抜きの極一部です。 |
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日本を発つ前に友人から日本で運転免許証を取るより、外国は簡単だから必ず取ってくるようにとよく云われていたので、ヴァージニアさんにふとその話をしてみたら、オーストラリアでは教習所だなんて大袈裟なものはなく、警察にいってその旨を申請すると黄色に果でL(エル、Learner
教わる人の意)と書いた四角のボール紙を2枚くれる。それを車の前後につけて隣りに運転免許証所持者が同乗すれば、いつでも路上運転ができると云う到底日本では考えられない無謀な事であるが、併しあの大きなオーストラリアの全人口と、この小さな東京の人口とほぼ同じでは人も車も少ないわけで、気にする程の事ではないかも知れない。彼女は早速僕に個人教授のDrivlng
Teacher、を家に連れてきた。驚いた事に彼は補聴器をつけている。耳の遠い人が先生になれるなんてこりや又びっくり。日本では仮免許を取る前は教習所内のコースでノロノロ稽古なのに、こちらではいきなりハンドルを持たされ、各ギアの入れ方を教えてくれたら、もうす今に出発進行である。
初日から仮免許ならぬ路上運転には一寸面食ったがガックン、ガックンやりながら嬉しさは一変して死にもの狂いでした。学校から帰ってパンジョーのレッスンに差し支えない程度に車の方は週2〜3回にしてドライブも回を重ねるうちに調子も出て、だんだん遠乗りするようになりカントリーロードでは60マイル(96キロ)以上のスピードで、先生はモットモット飛ばせとあおりたてるし、そんな時はいっも大声で「神風タクシー」と呼びながら運転したものです。先生も「神風」の意味がわかると、逆に「カミカゼ!」とうるさくて参ったものです。約1ヶ月、12回のレッスンで見事Drivlng
Licenseを獲得した喜びは今でも忘れられません。そのお陰でアメリカ、日本と一時は3ヶ国のライセンスを所持していた僕はいつも自満の種でした。
シドニーにはABN(チャンネル2)、ATN(チャンネル7)、TCN(チャンネル9)、の3つのTV局がある。或る日、フィル・スキナー先生と僕の二人の写真が新聞にのった。見出しにはでかでかと「Celebrated
Visitor At Crows Nest.Have You Rubbed Shoulders With Yoshio Ono?」‥‥と書かれ、僕がフィルのもとでパンジョーを学んでいる事や、日本の事が紹介された。そしたらその翌日又、又、シドニーの有力紙「デリー・テレグラフ」に「Ono,The
Japanese Yodeller Holbs Note 35sec----35秒もヨーデルのウラ声が続くヤング日本人歌手----」と大きく書き出された。途端に各テレビ局から出演申込みがジャンジャンかかり、そのリハーサルなどに忙がしくなった。
なかでもATNの「ユア ヒット パレード」、TCNの「バンドスタンド」はもっとも人気のある番組で、それはゴキゲンでしたが僕の歌うバックの背景はきまって富士山と松の木に鳥居で、それがどういうわけか中国スタイルでどうもおかしい。外国人には日本も中国もどうやら同じように見えるらしい。いくら説明してもラチがあかずそれには参った。本番が終るとサイン攻めにはこれ又大変で漢字でのサインが気に入ってか、めずらしいのか、不思議そうな顔をする。それを見ていた方がよっぽど楽しい。可愛い娘ちやんにデートをさそわれたりするがヴァージニアマネージャーは、一斉シャットアウト、電話にも出してくれない。きびしいというか、僕にはヤキモチにしかとれない。「ヨシに万が一、何かがあったら私の責任ですから」と口をとがらせる。あの時程この「パパア、ぶっとばすぞ!」と頭にきた事はなかったが、彼女もよく面倒みてくれたしそれも一時的なものだった。仕事もいいがレッスンにひびくので週末だけKings
CrossにあるJapanese Sukiyaki Rooms(スキヤキレストラン)Showにレギュラー出演した。
すし、天ぶら、スキヤキと日本料理は食べられるし、ユカタに座ブトン、すわっての寄席スタイルでの弾き語り、外国だからできたようなものの日本ではとてもだめですね。こんなわけで楽しみが一つむふえて、やっと生活にもゆとりができるようになった。
....つづく
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