エッセイ「閑土里西部譚 バンジョー片手に」 Vol.11

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タコマ富士と呼ばれるマウント・レーニア山
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さて、その日のうちに彼等宛にその旨を伝える速達便を出した。しかし数日たっても何の連絡もない。電話のベルが鳴る度にすっ飛んでいくが彼等にあらず、その度にがっくりくる。バンジョーの練習も手につかない。一日がとてもながーく感じられる。それが3、4日続くと、もういてもたってもいられない。ミセス・ディーンも大分疲れたとみえて5日目の夕食後まもなく床に入ってしまった。僕も半ばあきらめて横になりかけたとたん、けたたましくベルが鳴りひびいた。急いで受話器をとりに行くとすでに寝ていたはずのミセス・ディーンがニコニコしながらVサインを僕にむけて大声で興奮状態で話しているではありませんか。待ちに待った彼等からの電話だなとその様子で直感した。今から伺ってもいいかとの事、もちろん0K、二つ返事。もう大あわて、上を下への大騒ぎ、やがて10時過ぎ、ナッシュ、ウィラーの御両人はフラな格好でバンジョー片手にやってきた。ナッシュ氏はグランパジョーンズの弾くクローハマースタイル、ウィラー氏はそのものずばり僕の望むスリーフィンガースタイル。彼はにくい程の指さばきでこの曲知ってるかといわんばかりに「ワイルド・ウッド・フラワー」、「フォギー・マウンテン・ブレークダウン」、「ランディ・リン・ラグ」、「フリントヒル・スペシャル」、「デキシー・ブレークダウン」
etc. 次々とメドレーで弾いていく、その都度僕が曲名を云うのでよく知ってるなあと驚いていた。「今度はヨシの番だ」と云うので僕はコードを弾きながら唄を歌いだす。いつしか僕の調子に合せてウィラー氏はバンジョーをつまびき、ヨーデルでコロコロやったら、二人共目配せしながら「お前さんやるな」と云った感じ、今度はナッシュ氏も負けじと弾き出した。スリーフィンガーどころかスリーバンジョーでの大合奏、思わぬパプニングにミセスディーンも大喜び、夜の更けるのも忘れて騒いだっけ。
シアトルに来てちょうど10目目、苦労の甲斐あってウィラー先生について本格的レッスン が始まる。しかも出張教授ときている。ついている事に2週間程特別休暇を僕のためにとり、それをフルに教えてくれるとは、もう願ったり叶ったり。
初日は午前11時から午後3時迄、たっぷり4時間は一寸きつい。せっかく習ったのに時間がたつにつれて頭の中はコンガラガッテくるし、何が何だか要領もつかめず、結局何も収穫なしに終ってしまった。時間が長ければそれだけ憶えられるかと思ったが却って逆効果だった。彼にしてみればどうせ来たからには長く教えたほうが得である・・・・・・が、しかしレッスン料だってバカにならない、30分単位で3ドル、4時間で24ドル、当時は1ドル360円だから1日で8、640円、こんな調子で2週間も続けたら大変な事になる。だから「2日目から1時間少々にしていただけますか」と先生にお願いしたところ渋々OKはしたものの、余りいい顔をしていない感じ。仕方なく今度は僕の方から先生宅迄出向くはめになってしまった。日本にいる時だってバス停が分らなくってマゴマゴしていたのに、まして異国にあってはチンプンカンプン。幼稚園の子がママに連れられていくように、僕はミセス・ディーンにエスコートされてダウンタウン迄バスで20分、乗りかえて更に30分、かなりの道のりだ。日本のようにバス乗り場に停留所名、行先なんて書いてない。黄色い1m程の杭がバス停とは不親切というか全くあきれる。だからバスに乗っていてもおちおちできない。乗越する事もしばしば、その度に重いバンジョーかかえてヒイヒイいったものです。あの頃でバス代25セント(90円は高いと思ったが、のりかえは乗車の時に「トランスファ・プリーズ」といって券を貰えばただでもう一回のれる。日本でもそうあって欲しいものである。
....つづく
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