エッセイ「閑土里西部譚 バンジョー片手に」 Vol.19
シアトルに帰ってから1週間後、待ちに待った“グランド・オール・オープリ”の写真が数十枚、それも4ッ切りの大判でスチンソンさんから届いた。ミセス・ディーンはものすごい大声で「ヨシ! オーワンダフル!!」と我が事のように喜んでもう大変でした。その夜は、隣近所の人達が皆集まって、“You all come!” 早速パーティが開かれた。ウィラー先生も駆け付けてくれた。何しろ嬉しかった。僕はバンジョー片手に唄いまくった。いつしか先生もバンジョーを取り出して一緒に弾き始めた。途中で一度止めたが、「More, more, more」としつこいの何のって、止めるわけにいかない。2時間もぶっ続けにはいささかバテた。米軍キャンプのクラブのショウ以上だ。最後に“オープリ”で唄った『コロンブス・スタッケイド・ブルース』を唄ったが、もうどうしようもなかった。さすがのミセス・ディーンもたまりかねてか、一寸怒り加減で皆に何やら怒鳴っていた。疲れたが何故か楽しかった。納得のいく素晴らしいパーティだった。
数日後、ベスパーさんから電話が入った。「“オープリ”の写真が届いていたら直ぐ送ってくれ」って。何しろ日本へ帰ってから、“オープリ”の話題で持ち切りで落ち着く暇もないそうだ。堀さん初め、コロムビア・レコードの長田さん、そして当時、ラジオ関東で活躍していた鈴木策雄氏が、次号のミュージックライフ誌に載せるため“オープリ”の完訳テープを描写、更に「その写真を一緒に是非とも欲しい」との事である。その頃、シアトルは雨が多く、その日も雷雨の激しい中を約30分も歩いて、ノース・ゲイトにあるポストオフィスヘと急いだ。
「5月22日の日米修好通商百年記念祭に是非歌をひとつ」と北米報知新聞社の主任、田辺さんに頼まれる。社の迎えの車で夕刻会場へ。何と内容は殆ど日本人二世と三世の人達で満席。お年寄りが目立ちまるで敬老会だ。MCも殆んど日本語で話をしているので、ちっとも遠くアメリカにいる気がしない。
スピーチも終りショウが始まった。日本民謡、日本舞踊など、もっぱら日本人中心で、アメリカ人は少ないというより全くというほどいない。出番がきた。日本にいるつもりで、『山の人気者』、『アルプスの牧場』とヨーデルで調子を付けてから、お年寄り向きに『酒は涙か溜め息か』、『船頭小唄』など、懐かしのメロディをメドレーで綴り、終りに『川田節』を。調子の変わる所で拍手が起こり、エンディングの『地球の上に朝が来る……』で最高潮! 幕は下りたがアンコールがきた。折角下りた幕をもう一度。何せ手動式なので「ヨイショ、コーラショ」で大変。続いて『黒田節』を唄ったら、浮かれたジイさんが上がって来て、何とも滑稽にやったもんだから「もっとやれ」で、『ソーラン節』、『斎太郎節』etc. 知ってる限り唄いまくって、もう民謡酒場と化していた。
それ以来、シアトルの日本人達からパーティやら結婚式などの出演依頼が増えて、バンジョーのレッスンどころではなくなった。ブウブウ文句を言っていたミセス・ディーンもお付き兼マネージャーで一緒に来ているうちにすっかり慣れて、出掛けるのを楽しむようになってきた。
ある時、ライオンズ・クラブのパーティで僕のEPレコード(当時1枚300円、1ドルが360円の頃)が1枚10ドルで20枚全部売れた時、目を丸くしてびっくりしていた。帰って早速ベスパーさんに「至急EPを送れ」と速達便を出したのには、僕の方が驚いた。マネージャーとしてすっかり板に付いた感じで、頼もしくなってきた。
そうこうしている内に、ベスパーさんから帰国の要請があり、楽しかったシアトルでの生活にもピリオッドのときがきた。
知り合ったシアトルの大勢の方たちとのお別れパーティに日々追われ、沢山の思い出をあとにして、帰国の途に
ついた。-end-
『バンジョー片手に』のシリーズは終了です。次回からは、『グアム島一人旅』です。
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