エッセイ「閑土里西部譚 バンジョー片手に」 Vol.6

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ハワイタイムスに掲載!
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オーストラリアのシドニー港を発って12日目の1月10日午前6時過ぎ、憧れのハワイ・ホノルル港に到着、あたりは未だ薄暗かった。入国の手続きに大分時間がかかり、ふとデッキに出たとたん「ヨシ!」って呼ぶ声がする。そこには僕のスポンサーであるジョン・ベスパーさんがいるではないか、もう嬉しさと驚きでびっくりした。シドニーで別れてから5ヶ月振りの対面である。船で知り合った人達に別れを告げ、迎えのインペリアルの高級車でロイアルハワイアンホテルへ、目の前のワイキキビーチは午前中のせいか人影も少ない。白砂の浜は美しく、椰子の木が高くそびえたつ、久しぶりに食べるパパイヤ、パイナップルが舌にとろけそうでたまらなくうまい。小鳥がなれなれしくテーブルによってくる。とてもフレンドリーである。併しつかまえようとしても、すばしっこくてどうしても掴まらない。それもそのはずや生の鳥だそうだ。
その夜、このホテルでキングストン・トリオが出演すると言うので早速彼らのショーを鑑賞する。45分のショーも瞬く間に終って、一度引っ込んだ彼らもアンコールの拍手と歓声に再び現れ、2、3曲歌う。又アンコール、引っ込んだり出たりして更に45分、結局一時間半のショータイムもあっという間であった。
ショーマンシップの素晴らしさをまともに身に受けて感激した。ショーが終ってから、彼らの楽屋を訪れた。五弦バンジョーのMr. Dave
Guard (デイヴ・ガード)に逢うことができた。彼はとても親切で我々を快く迎えてくれた。バンジョーを手にとっていろいろと弾いてくれたり、アメリカでのバンジョーの先生のアドレス等を書いてくれたり、一緒に写真を撮ったはいいが、デイヴはとても背が高いので、僕は立って彼と並んで写したのに、いすに座っていると思われ、大笑いされたほど。彼らと朝まで飲みあかしたのも楽しい思い出として今も心の隅に残っている。
ホノルルに着いてから、ベスパーさんに連れられて昼はワイキキの浜で泳いだり、彼の友人宅に招待されたり、夜はクラブのショーを見たりで3日間の休暇もあっと云う間だった。その頃ホノルルには日本人のタレントばかり集めた「ジャパニーズショー」を4、5軒のクラブで毎夜行われていた。中でも大きいのが「オアシス・ナイトクラブ」である。僕はこのクラブで6週間の出演が決まり、何せ久しぶりのステージなので落着かなかった。演歌あり、ソロダンサーにコミックカブキスタイルの踊り、チームダンス等、そして取りの僕で終る1時間たっぷりのショー。驚いた事に、9:30、10:45、12:00、1:30、の4回ショーとは、如何にせん多すぎる。ショーが終ると2:30過ぎ、何だかんだして寝るのが朝5時頃、もうクタクタで一週間はどうにもならなかった。バラエティショーだから、現在のように一人で一時間もやるわけではないので助かったが、それでもあの頃は大変なものでした。仕事にも慣れてくるとショーが終ってから毎日のように皆でボーリングをしたり明け方のハイウエイをドライヴしたりして楽しんだものです。
当時、日本では青山ボーリング場しかなくて、倒れたピンを人間がいちいちセットしていたのだから今考えるとオカしなものだ。その頃のハワイではあちこちにボーリング場があって最も盛んな時だった。僕はオーストラリアの自動車ライセンスを持っていたので、それとオアシスのボスのパチャコ(彼はいつも、ワタシ、パチンコね、と云って皆を笑わせる)さんは、元、ポリスマンだったから大分あちこちと顔がひろいし、彼のお蔭で試験なしで、5ドルとサインだけでOK、日本と違って左ハンドル、左側通行だが、なれてしまえば右も左もどうって事はない。ただ交通法規のきびしい事は日本人も少しは学ぶべきでしょう。歩行者はぜったいに横断歩道を渡る。だから車の方も人がその歩道を渡ろうとしていれば必ず止る。ピッピッとホーンをやたら鳴らして無理に通ろうとはしない。ゴミやタバコの投げすて、運転者以外のものでも車中で酒を飲んでいると御用である。
....つづく
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