エッセイ「閑土里西部譚 バンジョー片手に」 Vol.12

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ニューヨーク
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毎日の厳しいレッスンのお陰でレパートリーも日毎に増えていった。”Swanee River”, ”Wi1dwood F1ower”, ”Foggy Mountain Breakdown”, “Down Younder”, “Farewell Blues”, “Shuckin’ The Corn”, “Randy Lynn Lag”, “Ear1's Brakedown”, “Dixie Brakedown”, etc.・・・。4月に入って間もなく、ベスパーさんから吉報が入った。「4月下旬か5月上旬に“グランド・オール・オープリ”に出演のチャンスを得たからすぐにテープに数曲録音して、ミセス・スクラッグスに送って欲しい」との至急便だった。嬉しさを通り越して歓喜よりも驚異を感じ、僕自身戸惑った。夢にまで見た“オープリ”「ただそこに聴きに行くだけでいい。それで充分だ。皆に自慢出来る」……なんちゃって。そんな小さな望みがまさか、こんなに大きな出来事に発展するとは。信じるにも信じられましょうか。感激のあまり、ホッペタをつねりっぱなしでした。ウィラー先生もミセス・ディーンも僕以上にエキサイトして、その張り切りようは大変でした。とにかく“オープリ”出演まで1ヶ月足らず。この日から僕の猛烈なバンジョーと歌(特に発音)の練習が始まった。先方から出された条件は、純然たるカントリー&ウエスタンの曲でバックバンド(レスター・フラットとアール・スクラッグス)が5弦バンジョーとフィドルを中心としたマウンテンがかったもので、僕が得意とするヨーデルを生かし、レスターとアールがコーラスに加わる。所謂「リフレイン」のパートがあるものが望ましい……とある。そしてベスパーさんをはじめ皆々の衆と考えた結果、曲名は、ジミー・ディビスが初めて世に出し、ハル・ロン・パインがアップテンポにアレンジしヒットした『コロンブス・スタッケイド・ブルース(Columbus Stockade B1ues)』と決定した次第である。
ベスパーさんとニューヨークで再会したのは4月28日。当時は東京でも10数階のビルはまれで、ましてニューヨークの様に50階から、それ以上のビルがずらりと並ぶと、その壮観なこと。驚きと珍しさでたまげっぱなし。今でこそ、新宿西口には高層ビルが建ち並んでいるが、あの頃でそんなのが見渡す限りびっしりだもの。5日間の休暇はもっぱらBrook1yn Bridge, The George Washington Bridge, Co1ombia University, United Nations Secretariat, Empire State Bui1ding, etc.……の市内見物で終始した。中でも、Radio City Music Ha11は日劇の2倍もある劇場で、座席、ロビー、特にトイレに至っては思わず靴を脱いでしまいたくなるような厚手のジュータンが敷き詰められていた。その豪華さにはびっくり。
日本にもトイレでの面白いエピソードがある。僕が帰国して赤坂のある超一流ナイトクラブに出演した時、皆が「部長」と呼んでる男、見るからに風采があり、恰幅がいい。「何の部長か」と尋ねたら、何とトイレット部長だって。冗談がきついので、からかわれているのかと思ったら、それが本当の本物と判って二度びっくり。先ずトイレに入り用を済ませ、次に手を洗う。ふっと周りに目をやると100円玉、500円玉、千円札などがたくさん入っているケースが置いてある。その瞬間イヤーな予感が背筋を襲う。
「細かいの持ってたかな」ふっと気が付くと暖かいオシボリが目の前に、洋服をブラッシングしたり、頼みもしないのに靴を磨いているではありませんか。その時誰もが、100円か、500円、いやそれ以上かと戸惑うそうだ。トイレの中にはぬいぐるみの動物、人形の大小様々なのが置いてあってチップの額によってそれをプレゼントするそうだ。その最高額を聞いたらなんと男性にあらず、年増のご婦人で5万円だって。あなただったらいくら出す?
....つづく
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